さらり

それなりに働いてそれなりに歳を重ねた30代女が思うこと

#履き慣れぬショートブーツを脱ぎ捨てて

朝起きたら、電車が止まっていた。厳密に言うと、普段使っている路線ではないけれど限りなく近い路線が止まっていたので、そこから流れてくる人たちが自分の使う路線に乗ってものすごい混雑になるだろうことは予想がついていた。
地方出張の予定があったので朝食も食べずに早めに家を出て、とにかく新幹線に乗り遅れないように、間に合うようにと自腹でグリーン券を買って、3本ほど見送って乗った電車は20分かけて1駅進むのがやっとだった。

電車を飛び降りてタクシーを拾おうとするも1台だって来やせず、とにかく焦っていた私は全く関係のない、遅れていなさそうな路線の駅に向かうバスに乗った。始発から終点まで乗ってた乗客は私だけだった。東京駅には近づけず、北から南に移動しただけの私は、当初の新幹線に乗るはずだった時間にまだ地下鉄に乗っていた。
あちこちに謝りの連絡を入れて、3回ほどEX予約で時間を変更してどうにか飛び乗った新幹線の中で到着時間を調べると当初より1時間ほど遅れる算段になっていた。慌てて駅のホームで買ったお弁当は味が濃くて、途中で飽きてしまった。

普段履かないようなヒールを履いてあちこち走り回って、混雑の中ぎゅうぎゅう詰めになりながら何も言わず耐えて、4時間超の会議で頭をフル回転させて、終電ギリギリの新幹線に飛び乗って、日報を出して溜まった連絡のチャットに返信し終わると、私はそのまま新幹線のシートに沈み込んだ。
いつもだったら音楽を聞いたり大切な人たちの写真を見たり悪友とのLINE履歴を見れば多少体力も気力も回復するが、昨日はそのどれもが効かなかった。大好きな人のことを考えようとしても、頭の中で「今それどころじゃない」と冷静にシャットアウトする自分がいた。

そんな私の目にふと飛び込んできて、気持ちを少しだけ浮上させたものがあった。真っ赤に彩られた、自分の爪だ。前日に友人たちと会う予定があったのと、少しくらいの華やかさなら許される職場ということもあって、そのままにしていたもの。スマホを触る自分の左指がすべて同じあざやかな赤に彩られているのを見て、私の気力は少しだけ回復した。
ネイルサロンに通ってきれいにしてもらったものではない。NAILHOLICと、百均のトップコートベースコートの3本だけで仕上げた、金額にしたらたった500円やそこらの爪だ。私の技量代を差し引いたら、100円くらいの価値しかないかもしれない。かわいい模様も、美しい柄も入っていない、何の変哲もない赤い爪。けれどそれは、間違いなくあの瞬間の私を救った。

私は、同年代の女性に比べたらいろんなものを持っていない。自分が築いた家族もいないし、恋人もいない。持ち家や車があるわけでもない、美しくもなければかわいくもない。親兄弟と友達にはたいそう恵まれたけれど、自分自身で勝ち取ったものは数えるくらいしかない。
その『数えるくらい』のものはしかし、確実に自分を救うものばかりだ。私は自分で自分を救う術を勝ち取ったのだと、それは胸を張って言える。

『自分の機嫌は自分で取れ』というとある芸人さんの言葉を少し前に目にした。本当にその通りだと思ったし、自分の機嫌を取れる術を持っている私は幸せなのだと自慢してもいいだろうか。