さらり

それなりに働いてそれなりに歳を重ねた30代女が思うこと

#オタクじゃなくたって恋は難しい

タイトルはあのマンガから。
私は、恋愛の面でいうと20代を棒に振った。端的に言うと、いわゆる『一番可能性の高い時期』を後に二股の末他の人と結婚した一人の男にくれてやってしまった。それはそれで今となっては愉快な思い出だし現在の私の人格を作る要素としてはかなり大きなものになったけれど、アラサーを卒業した今未婚だということを鑑みるとまじで勿体ないことしたな…と思わないこともない。

その男は10歳上で、二卒で転職した先での直属の上司に当たる人だった。大学を卒業するまで恋人の類がいたことがなかったというのが当時の私にとってはなかなかのコンプレックスで、女性としての魅力がないのだと思いこんでいたし、そのくせ『女性』としての視線を向けられることが怖いというかとても気持ち悪くて、女性という役割を求められるのがいやという面倒くさい状態にあった。
で、その男は多少恣意的に書いている自覚はあるがたぶんそこまで見抜いて10個下の、当時垢抜けてもおらず世間もよく知らない、お手軽そうな私に手を出したわけだ。いま当時のその男の年齢を超えて思うのは『ろくなもんじゃねえな』ということ以外の何もない。まじでろくなもんじゃねえな。しかもこの男、私の覚えている限りでは『好きだ』とか『付き合おう』とかいう区切りのような言葉を一度も言ったことはなかった。まあそれは別れる時に『付き合おうとか言ったことはなかったけど』と自覚があったことを白状したので良しとする。

この男の何がアレだったって、私に手を出した時点で彼女がいたし私と別れた約3ヶ月後に結婚していた。取り立てて顔やスタイルがいいとか、年収が高いとかそういう要素はなかったにもかかわらず女関係が途切れなかったのは、なんというか『言いくるめる力』が異常にあったからのような気がする。私も好きだとか付き合おうとか言われないままうまく言いくるめられてなんとなく4年くらい付き合って30を目の前に振られたからきっとそうなのでしょう。
そしてこの男、怒ったり機嫌が悪くなるとそれを口には出さず黙り込むタイプだった。同年代になった今思う、子供かよ…。気持ちは分からんでもない、怒ることは体力も気力も使う。しかしそれを10歳下相手にやるか。今の自分が職場の後輩たちに同じことをしていないという自信はないけれど、まあやっぱり普通に考えたら割とありえない。子供か。

なぜこんなことを言い出したかというと、親しいところにいるまさに20代の女性がかつての私と同じ轍を踏もうとしていると知ってしまったからだ。当時の私と同い年、相手も当時のその男と同い年。出会い方もだいたい同じ。そして多分、二股をかけられているのも同じ。
現在の彼女と私の関係においては、『好きにしたら?』と言うしかない。たとえそれが彼女のキャリアやパーソナリティに大きな傷をつける結果になる恋であったとしてもだ。けれど、『似たような経験をしたことのある1人の女』としての視点でいうと、どうしても止めたくなる。言っても聞かないだろうし、もしかしたらいい結果になるかもしれないし、かつての自分がもし同じようなことを言われたって聞かなかっただろうから無駄骨だとは分かってるけど、どうしても一言だけ言ってあげたくなる。余計なおせっかいだと知っていてなお。

恋は難しいものなのだろうというのは、何となく分かる。逆に言えば何となくしか分からない。その恋が今現在の彼女の中では最優先事項なのだろうということは分かるし、『あなたと同じ結果になるとは限らない』と言われてしまえば全くおっしゃる通りですとしか言えない。いつもだったら『ポシャればいいのに』などと思ってしまうのだが(性格が悪い)わりと長い間比較的近いところにいたということもあってか今回ばかりはそうも思えず、私にできるのはただ彼女の恋が悲しい結果にならないようにと願うことだけだ。

…それにしても、かつての男は書けば書くほど『なんで私この男が好きだったんだろう』と思うことばかりだ。これこそが恋は盲目というやつか。当時の私よ、もっといい人がいるかは分からないけど雰囲気に流されるのはやめておきなさい。10年後の私との約束だ。

#履き慣れぬショートブーツを脱ぎ捨てて

朝起きたら、電車が止まっていた。厳密に言うと、普段使っている路線ではないけれど限りなく近い路線が止まっていたので、そこから流れてくる人たちが自分の使う路線に乗ってものすごい混雑になるだろうことは予想がついていた。
地方出張の予定があったので朝食も食べずに早めに家を出て、とにかく新幹線に乗り遅れないように、間に合うようにと自腹でグリーン券を買って、3本ほど見送って乗った電車は20分かけて1駅進むのがやっとだった。

電車を飛び降りてタクシーを拾おうとするも1台だって来やせず、とにかく焦っていた私は全く関係のない、遅れていなさそうな路線の駅に向かうバスに乗った。始発から終点まで乗ってた乗客は私だけだった。東京駅には近づけず、北から南に移動しただけの私は、当初の新幹線に乗るはずだった時間にまだ地下鉄に乗っていた。
あちこちに謝りの連絡を入れて、3回ほどEX予約で時間を変更してどうにか飛び乗った新幹線の中で到着時間を調べると当初より1時間ほど遅れる算段になっていた。慌てて駅のホームで買ったお弁当は味が濃くて、途中で飽きてしまった。

普段履かないようなヒールを履いてあちこち走り回って、混雑の中ぎゅうぎゅう詰めになりながら何も言わず耐えて、4時間超の会議で頭をフル回転させて、終電ギリギリの新幹線に飛び乗って、日報を出して溜まった連絡のチャットに返信し終わると、私はそのまま新幹線のシートに沈み込んだ。
いつもだったら音楽を聞いたり大切な人たちの写真を見たり悪友とのLINE履歴を見れば多少体力も気力も回復するが、昨日はそのどれもが効かなかった。大好きな人のことを考えようとしても、頭の中で「今それどころじゃない」と冷静にシャットアウトする自分がいた。

そんな私の目にふと飛び込んできて、気持ちを少しだけ浮上させたものがあった。真っ赤に彩られた、自分の爪だ。前日に友人たちと会う予定があったのと、少しくらいの華やかさなら許される職場ということもあって、そのままにしていたもの。スマホを触る自分の左指がすべて同じあざやかな赤に彩られているのを見て、私の気力は少しだけ回復した。
ネイルサロンに通ってきれいにしてもらったものではない。NAILHOLICと、百均のトップコートベースコートの3本だけで仕上げた、金額にしたらたった500円やそこらの爪だ。私の技量代を差し引いたら、100円くらいの価値しかないかもしれない。かわいい模様も、美しい柄も入っていない、何の変哲もない赤い爪。けれどそれは、間違いなくあの瞬間の私を救った。

私は、同年代の女性に比べたらいろんなものを持っていない。自分が築いた家族もいないし、恋人もいない。持ち家や車があるわけでもない、美しくもなければかわいくもない。親兄弟と友達にはたいそう恵まれたけれど、自分自身で勝ち取ったものは数えるくらいしかない。
その『数えるくらい』のものはしかし、確実に自分を救うものばかりだ。私は自分で自分を救う術を勝ち取ったのだと、それは胸を張って言える。

『自分の機嫌は自分で取れ』というとある芸人さんの言葉を少し前に目にした。本当にその通りだと思ったし、自分の機嫌を取れる術を持っている私は幸せなのだと自慢してもいいだろうか。

#お弁当生活

この夏から、めちゃくちゃ緩くお弁当を作り続けている。よりによって夏かよと自分でも思うけど朝起きられるのが夏しか無いんだから仕方ない。数年前にもお弁当生活をしていたがキッチンが狭くて諦め、そこから引っ越しを経て広めのキッチンを手に入れたことで再開した。元々私は食べることが好きなので『自分が作った、味が想像できるものを朝昼夜食べないといけない』というのがとても苦痛だったのだが、年をとってその辺りの感覚がバカになったのか最近は全然平気だ。これが老化なのだろうか。
お弁当づくりに課しているルールとしては3つ。『中身は毎日同じで良い、彩りは気にしなくて良い、5日中4日作れば良い』ゆるい!最高!自分に甘い人間なのでスタート時点で思い切りハードルを下げておかないとすぐに挫折するのだ。

『中身は同じで良い』と決めてからというもの、作ることに対しての心理的負担が減った。そもそもお弁当とは言っても私は朝絶対起きたくない人間でお弁当も前の晩に作って冷蔵してあるので毎日同じものを作り続けることになるのだが、手順を覚えてしまえばただ無心で作業できるのでとにかく楽だ。
同じにしている中身はもやしのナムル、キノコのソテー、卵折り(卵焼きではない)、冷凍の枝豆+冷凍食品何か。もやしのナムルは茹でたもやしに中華ペーストを和えただけのものなのだけれど、最近茹でるよりもレンチンするほうがよっぽど楽だということに気付いたのでまた時間効率化が捗っている。
卵折りは、卵焼き器に卵液を流し込んで真ん中からパタンと二つ折りにしただけもの。料理自体はそこそこできるのだけれど卵焼きだけがどうしてもできない。まあ自分が食べるだけだし良いか、と毎日適当にパタンと折っている。味付けは白だし液。小さい頃から自分が作る卵料理の定番味付け(たまに飽きる)
油の残った卵焼き器に、そのままキノコを投入する。大体しめじ+エリンギか舞茸。油が回ったら、水を入れて軽く水焼きにして昆布だしの顆粒を入れる。水分がなくなったら終了。ローズマリーのお塩とか鮭醤油とか色々試してみたけど今の所昆布だし以上に美味しいものが見つからないのでしばらくはこれ。たまに鶏肉(胸か手羽トロ)を入れて一緒に炒める。
冷凍食品は店頭で美味しそうだなーと思ったものをいくつかストックしておいてその日の好みで入れる。唐揚げ、ミニハンバーグ、肉焼売、フライの中から1~2種程度。ニチレイの唐揚げが美味しいのに安いのでいつもストックしてある。自然解凍ができるやつ、絶対うそやん…と思いながら初めて試したけど本当にちゃんと美味しくてびっくりした。冷凍枝豆は保冷剤代わり。
あとはこれに朝炊いたご飯でおにぎりを握って終わり。朝の実作業時間は5分くらい。

元々お昼に800円とか900円とかかかってたので、手間はあれどそれが1/3程度になったのは正直とても助かる。ついでに言えば明日のお弁当作らないといけないなという動機から夕飯も適当自炊するように鳴ったので食費がぐっと下がったから一石二鳥。幸いいまの会社が20時には完全退館しないといけない職場なので、帰宅が22時とか23時とかになることもないからぼちぼち続けられている。
難点としては急なランチのお誘いを断らざるを得ないことだけど、最近はお弁当持ってきてることを職場の人達も分かってるので事前に段取りつけてもらえるからありがたい。今のところプラスしかないのでしばらくお弁当ライフは続けるつもり。

#雨の日の思い出

今週のお題「雨の日の過ごし方」

どう過ごすも何も、雨でも雪でも仕事に行かないといけないのは変わらないんですよね、勤め人の悲しさ。よく『雨の日にテンション上がるように傘はお気に入りのものを♡』みたいな声も見るけど傘に金をかける趣味はない。しかしビニール傘にした途端盗られる確率が格段に上がるので福岡出張の時に急に雨に降られて歯噛みしながら買った紺色の傘を使うことだけは意識しています。

お題とは少し離れるけど、雨の日で思い出すことと言えば大学時代の最後の公式戦のこと。
サッカー部のマネージャーをしていました。最後の公式戦、ちょっとだけ格上のチームが相手で、我がチームは負けました。大敗ではないけれど、惜敗というほどでもなかったような記憶がある。うちは監督なんていなくて、自分たちで一から十まで何もかもしなくてはいけなくて、部員は20人足らずなのに女子マネだけ8人もいて、本当、愛おしく変な部活でした。
最後のハーフタイムが終わって、もうベンチのあるテントの中になんて引っ込んでいられなくて、雨に濡れながらずっと声を出していました。相手チームからしたら嫌だっただろうな、戦術も知らないような女子マネがちょっとそれっぽいことを指示する声が聞こえる試合なんて。

負けて、肩を落として戻ってくる選手たちの前で泣くこともできず、当時からお姉さんポジションにいた私はタオルをバッサバッサと彼らの頭に投げることしかできず。
あの時の私は、泣きたかったんだろうか。自分が試合に出てるわけでもないのに悔しがって、というかそもそもマネージャーの仕事すら3年次からしかやってないから『いいとこ』ばっかり取っていって、気がつけばちょっといいポジションに収まって、って今でも思う。

けれどまあ、楽しかったんですよね、あの時。『支えてる!』って自己欲求は満たされていたし、たまたまその年1年がたくさん入ってきて、2年も出戻りだの中途入部だのがたくさんいて、慕ってくれていて。
今はすっかり没交渉になってしまったけれど、みんな元気にしててくれたら、あの時泣けなかった私が報われる気がします。

#育ってきた環境は違うから

血液型で分類される性格占いみたいなものに興味がない。なんて言うと「出た出たww」みたいな反応をされることもあるが、当たってるとはあまり思えないから仕方がないのだ。反対もしないけど信じもしない、というくらいの認識だ。同じ理由で星座占いもあまり気にしていない。
一方で、「兄弟でどの位置において育ってきたか」は割と信頼に値すると自分の経験則から信じているところがある。長子、真ん中、末っ子、一人っ子。『占い』ではないけれど、その人がどのような立ち位置で育ってきたか、どんなふうに振る舞ってきたか、というのは、社会に出てからの立ち位置となんとなく同じところに行くような気がしている。もちろん年次や、その会社における立ち位置によって変わってくるとは思うけれど。

私は長女だ。弟が一人いるけれど、5つ離れているから一人っ子期間も長かった分根っこの部分は割とわがままである。けれど、『5つ離れている』ともなれば母親は私にある程度の『大人の代わり』としての役割を求めたこともあった。
特にうちは両親が共働きでごくまれに夜に飲み会が二人ともかぶるなんてことが年に2-3回あった記憶があり、そういう時はごはんから洗い物までのひとしきりは私の担当だった。小学生の、まともに家事もしたこともない弟(しかも生意気)に家事なんかそりゃあ任せられやしないわな、今自分が母親と同じ立場でも姉にひとしきり任せるわ。

けれど一方で、父も母も私に『お姉ちゃんなんだから』ということは一切言わなかった。6歳7歳の、まだ弟が赤ちゃんだったときに1度言われた記憶があるくらいで、少なくとも小学校高学年を超えてから言われた記憶はない。お姉ちゃんなんだからガマンしなさい、譲ってあげなさい、そういう類のことは一切言われた記憶がない。
そして、『女の子なんだから』と言われた記憶もない。私は九州の、まだまだ男尊女卑的な考え方があるような環境で育った。女の子なんだから短大でいいじゃない、女の子なんだからおとなしくしてなさい、そんなことを言われた記憶はまったくない。おかげで(?)青や白、紺や黒の落ち着いた色が好きな性格に育った。とは言えその思いは少なからずあったようで、私の部屋のカーテンやベッドカバーはピンクだったし、昨年誕生日プレゼントに父が選んでくれた日傘は自分では手に取らないようなかわいらしいピンクだった。笑

最近、特にこの1ヶ月で3回言われたことがある。『あなたがいると、あなたと話していると、安心感がある』働く上で、これは私にとって褒め言葉以外の何者でもない。そう言ってくださる相手に対して何か特別なことをしている感覚もないし、何かの便宜を図ったこともないのだけれど、自分の対応が相手に安心感を持ってもらえるそれなのであればそのふるまいは間違っていないと言ってもらえているような気がするのだ。
そしてそれは、自分が育ってきた環境に起因しているものが大きいのだと改めて思う。弟がいることで『しっかりしないと』という自覚は少なからずあったし、共働きだった両親が私に『姉』としての役割を求めていたことも分かっていたし、それが当たり前だと思っていたし、期待されていたことも嬉しかった。それが大人になった今でも生きているというのは自分でも不思議だ。

結局、私が生きている『今』は『これまでの自分が積み上げてきた時間』でしかない。私が立っているここは、知恵とか、経験とか、痛い思い苦い思い出、楽しかったことや夢のような時間、成功体験、つらい記憶。そんなものが小さな石ころとなって集まった浜辺なのだ。そして、私が『今』紡いでいる時間は、1年後の、3年後の、10年後の自分が立つ砂浜だ。だとすれば今の私ができることは、未来の自分が寄る波に足を取られてしまわないようないろいろな砂を、石ころを、いろんな形にしてそこに撒いておくことくらいなのだ、きっと。

#私のお部屋

今週のお題「お部屋自慢」

自慢じゃないけど、一人暮らしにしては広めの部屋に住んでいる。本当に自慢じゃないし自慢にもなりやしないけど。

会社まで乗り換え無しで約30分、駅から家、会社までの道のりを含めると約45分。和室6畳、洋室6畳、キッチン7.5畳、BT別の築28年のマンションを見つけたのは本当に偶然だった。4年前の秋たまたま問い合わせていた部屋が内見のタイミングで他の人に取られてしまい、どこまで妥協できるかを不動産屋とかけひきしながら見つけたのがこの家だった。
『2階以上』という条件以外は私の提示した条件を全部クリアしていて、半年くらい借り手が付いていなかったという理由で家賃が1.5万下がった。ついでに1ヶ月フリーレントもしてくれた。やっぱり引っ越すなら夏から秋だなという実感を持ってしまったので親しい人らには春には絶対引っ越すなと口を酸っぱくしてよく言っている。

本当は、もう一つ隣の駅を借りる予定だった。前に勤めていた会社の最寄り路線の始発駅だったから。けれどその駅には条件に当てはまる物件はまったくなくて、妥協して妥協して選んだのが今の家だ。
2部屋ある家に住みたかったのは広く暮らしたかったというのと、もう一つ、当時付き合っていた人と将来的一緒に暮らしても手狭でないところに住みたいと考えていたからだ。彼は体格のいい人だったから、自分一人で住むなら1LDKや広めの1Rという選択肢もあったけど敢えて2DKにした。和室はフローリングに張り替えますよと言われたけれど、寝室にするつもりだったし障子の風合いも嫌いじゃなかったのでそのままで、とお断りした。

この家に住み始めてから、色んなことが変わった。前の家の近くにはスーパーが1件あるだけで飲食店はほとんど無かったけれど、この街にはなんでもある。ラーメン、中華、カレー、パン屋さん、とんかつ、定食屋、お惣菜、パティスリー。ついでに、八百屋も飲み屋も。大好きなイタリアンだけまだ開拓できてないけれど、それでも毎日何かを食べるのに困ることはない。コンビニ飯になってしまうのは150%私の怠惰のせいだ。
大きなスーパーから小さなスーパーまで、それにドラッグストアもたくさんある。遅くまで開いている本屋さんも、整骨院やマッサージ店も、ちょっとした贈り物を買えるようなお店もある。それでいて商店街のおじちゃんおばちゃんは優しいし、スーパーの店員さんすらも優しい。元々私は田舎の育ちなので、そういう小さな会話が嬉しいし、ちゃんと都会なのにそこそこ下町感があるところがとても居心地いい。

そしてもう二つ。前の会社を辞め、そして付き合っていた人とは婚約破棄をした。結果的に隣町に住んでいたら今の会社までは面倒くさい通い方をしなければならなかったし、もし結婚していたら一人でも若干手狭になってきたこの家に二人で暮らしていただろう。ちょっと想像しただけで息苦しい(、と思う辺り私は結婚に向いてないんだろうなと思うけれどそれはまた別の機会に)

環境が変わると、自分も変わっていく。それは自分がこれまで生きてきた中で学んできたことの1つだ。私はきっと、この『家』に変えられた。手放す勇気を、捨てる快感を、覚えてしまったのだ。

※余談だが、この間うちに遊びに来た母親に『あんたは立体的に収納ができない!』と怒られた。30超えてガチで怒られるとは…と思わず笑ってしまった。笑

#わたしの転機

33歳になる約3ヶ月前、私は2社目に勤めた広告代理店を辞めた。

新卒で入社した会社を約1年半で辞めてすぐに入社したその会社で、私は約7年と少し求人広告を作っていた。営業事務で入社したにもかかわらず何回か営業にコンバートされそうになって、その度に「だったら辞める」と言い続けて事務職に居座り続けた。事務職とは名ばかりで、原稿も作ったし受注登録もしたし取材にも行ったけれど。

ひたすら原稿を作り、取材に出かけて、終電間際まで働いた。週刊の仕事は大変で、木曜日は絶対に20時より前には帰れなかった。趣味も、友達との誘いも、木曜に設定された瞬間諦めざるを得なくなる、そんな職場だった。
幸いにも、人には恵まれた。お客様にも、上司や先輩や後輩にも。自分が社会人になりたての時に立てた「浅海さんと働きたいと言われる人間になりたい」という夢は、社会人7年目の頃に叶った。お客様にそう言っていただいた時、目標や夢は叶うんだなとすごく嬉しかった。
大学の時にぞっこんにはまり込んだ「広告クリエイティブ」を、少しだけど細々と続けることもできた。営業部にいたのに制作部にちょこまかと入り込んで、コピーライターの上司にいろんなことも教えてもらった。TCCのコピー名鑑を業務時間中に堂々と読み漁った。絵心や美的センスというものは前世に置いてきたので何も発揮できなかったけれど、時々自分でもハッとするようなコピーが生まれた。お客様にそれを却下された時は悔しかった、そしてそこで「求められているものとの整合性を取ることの大切さ」、今で言う忖度を学んだ。

求人広告の仕事が、とても好きだった。自分の知らない職業を知ることは単純に楽しかった。絶対に自分だったら選ばないような仕事を選んだ人に、取材先であれこれ聞けることは本当に大きな財産になった。営業職、ホール・キッチンスタッフ、施工管理、エンジニア、SIer介護福祉士言語聴覚士。世の中には知らない職業がたくさんあって、その仕事を選んだ人がいる。どんな気持ちなんだろう、どうしてその仕事を選んだのだろう、そこで働く楽しさってなんだろう。私だったら絶対に選ばない仕事だから、知ったかぶりでは記事なんて書けない。だからいつも、取材するときには「私を口説き落とさせるようなインタビューをしよう」と思っていた。何も知らないずぶの素人が「この仕事いいなあ、この職場いいなあ」と少しでも思ったなら、経験者や有資格者はもっとなびいてくれると思っていたし、実際にそれで採用難職種と言われる職種の採用ができたこともある。
決して自分だけで掴んだ成功じゃない。案件を取ってくる営業マンがいて、コピーの書き方を教えてくれる上司がいて、少しばかりチャレンジングな原稿を作っても、「あなたが作ったなら任せる」と言ってくれるお客様がいて、だからこそ責任感が芽生えて、採用につながるということが多かった。私は、すごく求人広告の仕事が好きだった。

けれど、私はその会社を、その仕事を辞めた。

転機となった理由は呆れるくらい笑えるようなもので、「人間関係」の一言に尽きる。新しい上司の考え方にどうしても合わなかった。「あなたはキャリアもある、年齢も重ねている。ならばそれを後輩に数字で示しなさい」というミッションが降りてきた時、(この会社では働けないな)と思った。そこで課されたのは「いい原稿を作る」ことではなくて、「たくさん原稿を作る」ことだった。長尺の原稿を1本作る時間で、クオリティにはこだわれない、条件だけを詰め込んだ短尺の原稿を10本作れ。数をこなして、「あの人に仕事をふればすべてこなせる」という立ち位置を築け。それが、私に課されたミッションだった。

その考え方が間違っているとは思わない。会社によっては、そういうタイプの制作マンがいることも知っている。けれど、私はどうしてもそれが受け入れられなかった。ロボットみたいに数をこなして、誰が作っても同じにしかならない小さな原稿を作り続けることに楽しみを見いだせなかった。語尾につく「★」と「☆」、どちらが効果が良いと思いますか?とお客様から聞かれてそんな物どっちでも同じですよ星の形状で応募したくなるかならないかなんてあなただって考えたことも無いでしょう?と電話口で何回も言葉を飲み込んだ。

このままじゃ、大好きだった仕事を嫌いになる。大好きだった「求人広告」という仕事を、そして「広告」そのものを嫌いになる。それが分かっていたから、私は会社を辞めた。
同じ系列の別会社に行くことも考えた。が、応募には至らなかった。業界内での経験年数は長かったから他の会社に行けば(年齢面以外で)重宝されるだろうというのは分かっていたが、なんとなく、どの会社に行ってももういい原稿は作れないだろう、と思っていた。またロボットになれというミッションが下った時、それはもう絶対に決定打になるだろうと確信していた。好きなものを好きなままでいるため、最低限「嫌いにならない」ために、私の防衛本能が働いた。

今は全く畑違いの、教育関係の仕事をしている。BtoBの仕事からBtoCの仕事に変わって、こんなにも違うのかと未だに驚く。会社が変われば文化も変わる、人が変われば空気も変わる。自分が原稿に落とし込んできたものを、自分自身が1年と少しかけて実感している。
時々、自分が作っていたメディアを見る。自分が担当していたお客様の社名やお店の名前を打ち込んで、どんな原稿で募集してるんだろうとこっそり検索してみたりもする。大体はまだ自分が作っていた原稿のエッセンスが残っていて、その度に少し胸が締め付けられる。

転職は、何かの転機があって初めて発生したり認識したりするものだと思う。
私にとっての転機は上司が、会社が変わったことで、それが、転職につながった。知ったかぶりをしてずっと原稿に書いていたその内容を実際に体験すると、あの頃の自分は浅かったなあと恥ずかしくなる。それでもきっと、あの頃の私が書いた原稿で、私の知らない誰かは「転機」を手中に収めて、転職したりはじめてのバイトや就職をしたりしたんじゃないだろうか、そうだったら嬉しい。そうだったとしたら、あの頃の、若くて勢いしかなかった、青臭い私は報われて成仏するのだろう。そうじゃなかったとしたらあの頃の私の原稿には魅力がなかったのだと諦めるほかしかない。…そうでないことを祈るばかりだけれど、もう知る術なんてないのだ。